2018/09/19 19:51

以下は、著作「ラベンダー」のなかに収録の掌編「砂塵」の全文です。立ち読み用に作りました。



砂塵

 

なんでだか、辺りに砂の山が幾つもあって、よく見ると砂山の中に人の手のようなものが飛び出ているのだ、砂が舞っていて近づけないからよくわからないのだが。未だ、砂の嵐のなかを彷徨いながらも沈むことなく私は呼吸できているからまだ助かっている。きっとこれらの砂山はそれぞれの人生の盛り場なのだろう。自然の働きによって生まれた天然の土葬。この人たちは役目を終えたのかはわからないが、だが最近、私は砂山に埋もれることを私が見ていることをどうも本当ではないことのように感じてしまう。これは認識の誤りなのだろうか、つまり、私はここにいるという広がりや延長のなかで誰かが動かなくなったという事実を知るのだが、手を差し出していた人たちの中に彼らの固有の生き方が集約されていて、動かなくなるまでが彼らの生き方なのであって、活動や静止の分かれ目はあまり絶望的なことではないのではないかと思うのである。言葉の使い方としては宜しくないのかもしれない。誰かが動かなくなること、これを発見するのはその動かなくなった当人ではなく、必ず別の者に限るのだが、その発見自体は誰かが動かなくなったということを示しはしないのだろうと思えてきたのである。いや、確かに死といえばそれが事実となるのだろう。ただあとどのくらいの生死を分けるその支点を同じ拡がりや数直線上で分ける場合、おそらくこの分け方は長生きとか短命だとかそういう分け方でないのだ。今がいったい私が生誕して何年目なのかの証拠があやふやとなれば、もともと人の生き方は彼らの手の先を覆うくらいの無数の砂粒のようなものなのだ。それらを私たちはなにか尺度を同じにして共通の認識を持たせようとするから、乱れてしまうのだ。確かに死が事実だとするなら、そうだ、今や私が何者かの餌食だとか襲われたりするなら、今にも無数の砂が私を閉じ込めることだろう。つねに私はこう思わなければいけない、「ああ、これで私のこの世での人生の終わりか」と。  

しかし、死を発見するのは他者であるという既知のことからその知れ渡るなかで、誰かの人生の死というのは必ず誰かの人生の生を際立たせるものなのだ。それは私自体のことを思い返すことかもしれないし、あるいは、次は自分の番だといって、だからこそ自分の生を奮い立たせたりするのかもしれない。まあ、私には奮い立たせ方というのが未だよくわかっていないが。

このような砂山から嵐が遠ざかるとき、一層沈黙の寂寞とした空間を見つければ私たちは胸を締め付けられるだろう。いったいこの地球で遊ばせておいてどうしたいのかと誰かに問い詰めたくなるかもしれない。大したことではない、同じように砂嵐が降り積もるなかでしか、孤独を共有することは厳密な意味では難しい。その対話は素晴らしいことだ。しかしながら、時代に遅すぎた早すぎたとでも言うように孤独の打ち明けそのものに隠された秘密は共有する条件があまりに限られていて確率的にどうだろうか。私は失望してしまう。そうした限定された条件が私たちをその過去の先祖の記憶へと連れ戻し、その学習によって再び存在と記憶を担っている誰かと共有や相互理解を図っていくのかもしれない。

 再び、私は感謝祭の七面鳥のような気分に立たされる。或いは、短刀を携帯し体を清めていくときの心境地に立たされる。そしてこう思うのだ、「これが終わりなのか。まだ何も始めていないのに」

 もしも本当に七面鳥に姿を変えたのなら、私は囲っている柵からなんとか逃げ出そうとして色々と試みることだろう。人間の場合は違うかもしれない、人は放棄や諦め、報いということを既に知っているので、逃げ出そうとはしないこともある。諦めがわるいのは人間以外のものなのだ。こうしてなんとか執着に努めようとする。「まだ終わりじゃない」そう思っている彼らはいったい何をするのか、歩き続けること、餌を食べ続けること、休んだり眠ること。大概思い出すのはそのことくらいだろう。

 気の毒に感じることは探してみれば幾らでも出てくるだろう、だがめいめいが動物のように根拠もなく生きることに執着するように努めるのは困難だ。そう思うくらい、あれこれ空間のなかと自分のなかを動くことは疲れるのだ。

 だから砂山を見つめて私が思ったり、動物の生きることへの執着を想像したりするのは、生をより際立たせるためなのだ、次は自分の番である。だが幾ら待っても自分のところに砂が降り積もりはしない。そうして怠けていると、不意に呼ばれるのだ、「まもなくあなたのところに数年後砂嵐が襲うでしょう」

それも嘘で翌日には砂に埋もれているのかもしれない、私は必死に手を伸ばす。これから何かを掴むために手をめいいっぱい伸ばす。結果、私はくたばるだろうが、手は砂山を突き出るだろう、あの砂山の手はこうやって伸びたのか。始めたり続けることは私たちをますます孤立させるのかもしれない、ところが私たちが他の動物たちと溶け込みたいのならば、そうやって孤立しない限り、彼らは私たちを迎え入れてはくれないのだろう。新しく生きようとするなら各々砂塵に近づいてみるがよい。私は旅行者としてその観光を薦めておこう。