2018/09/19 20:55


こちらは掌編「hanging garden」の立ち読み版全文です。著作「寒い時の夢」に収録されています。

 


Hanging garden


 

男はその庭にいつの間にか着いた。庭といっても鬱蒼とした森の中であるが、森中のいたるところに人間の手が施されて、樹木の頑丈そうな枝に縄が吊るされている。その光景を俯瞰してみると電車の変な吊革が至るところにあるのと酷似している。がらんがらんの電車というのは車内を見渡すと実に異常なほどに吊革が多いのに気づく。そして、その吊革は手を支えて身体を保持するためにあるのだが、森の吊革は首を保持して動かなくするためにある。


男はこの森に迷い込んだ。しかし、大丈夫なのか。光の全く入らないこの森では、縄は次第に腐敗し首を保持する性質を失っているのではないか。男はひとまず歩きまわることにしたが、なるほど、誰か人の手によって新しい縄が用意されていることに気づいた。電車の吊革よりも確実に人の体液が付着するために、古い縄は外さなければいけないのではないか、男はそう思った。すると、この残っている古い縄は誰にも選ばれなかった縄なのかまたは新しい縄が本来の機能であって、この縄はこの景観を効率的に保存するためのハリボテのようなものかと思った。


しばらく歩くと、樹の幹がとても大きく安らぎを感じるような樹木が正面に現れた。この樹の枝にも縄が吊るされているので、男はそこでひと休みをして樹の下に腰かけた。人が分け入っている割には、光が入らないためか相関して苔やシダ類も繁茂しているようだった。男はこの場所が気にいった。


休んでいる男の前にふと一羽の鴨が歩いてきた。男に向かって歩いてきたわけではないのだが男の目の前を通り過ぎて行った。その体つきはふっくらとしていて、絶好のカモだと人は感じるだろうと思った。だが、どこからか異様な音が鳴り、鴨はふいに地面に倒れてしまった。その異変に気付き男が駆けよる前に、猟銃を持った長靴姿の大きな男が鴨まで歩み寄り、その肉体を大きな木箱に入れた。大男は来た道を戻る際に樹の下に座っていた男の存在に気づいた。


「いるか」


大男は箱の中から鴨を取り出し、足から逆さに吊るしてぐっと男に見せつけた。男は手の平を突きだして拒んだので、大男はそうかと再び鴨を箱にしまって来た道へ引き返して行った。


それからどのくらいだったのだろうか、男は茫然としていた。特になにか特別なことなど思いつきもせず今起きた現象を男のなかで映像的に処理せずにはいられなかった。男にとって衝撃的なことだったのは、このような聖地にでも野生の生き物が死んでしまったことだったのだろうか。男にはわからなかった。そのまま、男の意識は落ちて樹の下で長い時間を過ごすこととなった。


バタバタという物音で男は再び目が覚めた。その声の主を男は探すことができなかったが、それは蝙蝠なのだろうか。音がするということは蝙蝠がわが家に到着し落ち着いているのか、または餌を探している最中なのかいずれかだろうが、いずれにしても座っている男の森の中でその羽音のような音しか辺りに聞こえないのは奇妙だった。他の物音が聞こえてもよいはずなのに、苔が音を吸収するのかただバタバタという音だけ男の耳には聞こえてくるのだった。その音は男にとって快適な響きではなく音を聞かぬためにはこの森を立ち去るしかなかった。生きているものの喧しいことだ。男は仕方なくこの森を立ち去った。


また日常の足場に戻るとき、男はあることを思い浮かべてしまった。あの蝙蝠のような羽音が満ち溢れていても、それを跳ねのけて他の人は首をくくれるのだろうか。勿論、蝙蝠がいない時にまた行けば、ことはすぐに済ませるだろう。しかし、あの縄はなにか意を決したものが選んできた縄なのだ。その瞬間は静寂であってこそふさわしいのだ。その場を蝙蝠にぶち壊されては、やはり仕方なく去らざるをえない人が過去にいたのではないかと思った。


実際のところ、人はひとりでそこに足を運ぶのではたして男と同じ行動に陥った人は定かではないし、迷い込んだものも意を決することができるのかわかるはずはないのだ。