2020/06/16 17:17





著作、掌編小説集 「雨の日は憂鬱な」から ノルウェーへの旅をもとにした「ガイランゲル」全文をお載せします。







 まるで、目に映るもの全て信じられないほどに美しさを放ち、そこに佇んでいる。紀仁はここに来たいがために来たわけであるが、実際にフィヨルドを観光する急行船に乗り、船のデッキに出て周囲を見渡すと、幻影的な藍色の水面と聳え立つ巨大な山々を前に息することを忘れてしまう。自分が暮らしているところで見る光景とは異質なものだ。そして、そういったものが目の前に存在していることを頭のなかでなかなか整理できずにいた。船は先へと進んでいく間、同じ入り江では決してないが、似たような景色をノルウェーのバイキング海賊達は約千年以上前に進んでいたことだろう。紀仁にはバイキング達が目にしてきた景色を自分が追体験していることの嬉しさよりも、この雄大なフィヨルドの美しさを日頃見て来たバイキング達がなぜ、侵略者として粗暴な行いをしてきたのか、そのことへの不思議さの方が頭に一杯であった。紀仁は確かにこの景色を見るためにノルウェーへ向かった。しかし、観光に来たのは、普段自分が向き合っている事柄から一時的に避難するためでもあった。ただ世界の景色を眺めまわるだけの人生だったらどれだけ、心は楽になることだろう。しかし、そのような人は実際には少ないことだろう。探検家や長期の滞在旅行者でさえ、個々が取り巻いている人間関係や社会が求めている課題からは逃れられない。それが人間が存在していれば向き合わねばならない代償なのかもしれない。
 間もなく、船はガイランゲルという村に着く。紀仁も他の乗船客と一緒に降りる準備をした。帰りもまたこの船に乗るのだから、また帰りに景色を十分に堪能すればいい。彼の目に、フィヨルドは美しさを見せたが、彼はその美しさがどういったものかを細分化することはできなかった。日頃、そういった習慣はつけていなかった。このような美しさを目にしては、人はそこから遠ざかるわけにはいかないのだろう。村では、ハイキングツアーや自転車のレンタルなど案内をしているのを見かけた。紀仁はホテルに向かったが、そのホテルでさえ、後ろには山々が直立し、幻想的な水面が横たわっていた。紀仁はホテルでチェックインを済ませ、ロビーに備えてあったコーヒーメーカーからコーヒーを入れて落ち着かせようとした。ソファで座っては浅い呼吸を繰り返した。彼の頭のなかに帰国したあと、残している仕事のことや彼の帰りを楽しみにしている家族のことが思い浮かんだ。目の前のこと以外を頭からどけようとすることは彼には中々困難なことだった。しかし、今は先ほど目にしたフィヨルドの光景が彼の記憶に残っていた。この村で働いたり、長い間泊まることがあれば、それは日常の風景として彼は認識できることだろう。彼はロビーで休んでいる合間、これまでの自分を振り返っていた。思えば、よくここまで来れたものだ。紀仁が最初にノルウェーに興味を抱いたのは、彼の臆病で優柔不断な性格とは対照的にこの地方のバイキング達が実に勇ましいかということに引き付けられたからである。紀仁は自分のような性格の持ち主が、当時は人生を行動で切り開いていくことに不安を感じていた。バイキングの魅力に惹きつけられてからは、その書物を読み漁っては、深い関心を抱くのだった。
 実際に、紀仁の心が試練を要したのは旅だけではなかった。彼の学業や研究、仕事、職場での人間関係、プライベートな人間関係、旅して目にした景色、訪れた場所の体験、こういったものがそれぞれに彼に課題を投げつけ、それを克服したのか紀仁自身はわからないが、それらが通り過ぎて今、このロビーにいるのだった。振り返れば、バイキングの勇猛さや粗暴さが彼を勇気づけたりすることはなかったのかもしれない。それでも紀仁は当時、自分が憧れていた場所に辿り着けて十分に満足していた。
紀仁はホテルの部屋に荷物を置いては、食事を取ることにした。ホテルのレストランでは色鮮やかなサラダやノルウェーのブラウンチーズ、パンに魚介のペースト、サーモンの切り身が出された。味は濃すぎず、とても美味しく感じた。紀仁が食事を終えると、同じ宿泊客の男性が彼を珍しがり挨拶をしてきた。しかし、話しかけた人の言葉が聞き取れず、紀仁はまだ現地のノルウェー語に慣れていなかったので、ソーリーと英語で聞き返した。
「ここには初めてですか」
「ヤー」
 ノルウェー語のイエス・ノーくらいは覚えてはいたから、彼はイエスをノルウェー語で答えた。話しかけた現地の人も自分達の言葉で返してくれたものだから嬉しそうだった。
「幾つかのフィヨルドのなかでもここガイランゲルはまた一際輝く美しさを持っていますよ」
「ここに来れてとてもよかったです」
「なにかここでの予定は決まっているのですか」
「ナイ」
 今度はノーと伝えた。
「普段の日常のことを忘れるために来たので、特にプランは考えていません」
「じゃあ、私達と一緒に来ませんか。これからハイキングツアーに参加する予定なのです」
 紀仁は少し考えたが、今は何か予定を作る気になれなかった。
「有難うございます。ですが、一人でゆっくりしようと思います。お気をつけて」
 オーケーとその宿泊客は返事をして、レストランを出て行った。紀仁は日本からの長い時間のフライトや電車での移動、フェリーでの移動など体力を要したから、この日は早めに部屋のなかで横になり、長く眠ることにした。
 次の日にはもうここを離れないとならなかった。それだけ彼の職場でまとまった休みを取るのは困難だった。紀仁はホテルを出て、その後ろに見えるフィヨルドの光景を眺めながら、周囲を散歩していた。辺りの店はまだ開いてはいなかった。紀仁は歩きながら考えていた。毎日、ここで生活すればこのフィヨルドをずっと身近に感じて過ごせるのだろう。この自然の美しさは地球本来の美しさなのだろう。その美しさを前にして、人だけが自然を掌握しているなんていえるものだろうか。人達の関係は人達の間で意味をもたらしているが、自然の美しさは野生動物が共に自分達と共有できる美しさなのだ。彼らは美しさなど感じられないかもしれないが、この場所を棲家としているのだ。自然はそれらが更に自然自身がより美しく働きかけたりはしない。自分はこの美しさに圧倒されている。そのことは自然のなかに自分がいることを示している。私と自然の存在以外には意味を持たないのだ。私は人々の間で生活することで、役目や求められることに応えるように生活していた。だが、このフィヨルドの美しさを前にすると私に求めていることは、ただここにいることなのだと気づかされる。それは正にこの瞬間だけなのだ。私がもとの暮らしに戻ればまた私は関わり合いを続けなくてはいけない。これは私がフィヨルドの景色を前にして思う事であって、全ての観光客が同じことを感じるのかはわからない。しかし、登山家や海のダイバーなど人達の社会よりも自然に魅了される者には、その彼らの存在こそが求められるかもしれない。
 帰りの船でも紀仁はデッキに出て、この景色を見ていた。この先、この美しい景色をしばらく見ることができないことに彼は確信していたので、このフィヨルドの出口に着くまで彼はデッキから離れなかった。